春色スタッカート ♭2
その日の放課後、私は日直の仕事を終えたことを先生に報告してから教室に戻った。
静まり返った教室。生徒はみな部活に行ったり帰宅したりと、一人も残っていなかった。
ところが教室の中をよく見てみると、一人だけ、私の席の近くの男子が机に突っ伏して寝ていた。
私はその男子のそばに行って、顔を覗き込んだ。
――そこで寝ていたのは、あの増野くんだった。
イヤホンをしたまま寝ていたため、まわりの音に気付かずに寝続けていたのかもしれない。
「どうしよう……」
こういう時、声をかけた方がいいのか、起こさない方がいいのか、私にはわからなかった。
私自身は無理やり起こされるのはすごく嫌だ。自然に目が覚めるのがいちばんいい。だからと言って、他の子もそうなのかわからない。
しばらく戸惑っていると、増野くんが「ううん」と唸りながら顔を横に向けた。
すると、そのタイミングで増野くんの片耳からイヤホンが外れた。
そのイヤホンから、かすかに人の声が漏れ聞こえてきた。
(あれ?この音、もしかして、増野くんがいつも見ている動画の音かな?)
――少し興味を持ってしまった。
これが正しかったのか、間違っていたのか、今でもわからない。
私はイヤホンから漏れ聞こえる音を拾おうと、耳を澄ませた。
わずかに聞こえる会話らしきやりとりと、お客さんからのような笑い声。
それがテンポよく繰り返され、自然と笑いを誘ってきた。
きっとこの音は、増野くんのスマホで流れている動画の音なんだろう。
私はこの笑い声を聞いて、どうしても動画を見たくなってしまった。
パッと見た感じでは、スマホは机の上には置かれていないようだった。
突っ伏して寝ている顔の下にも置かれていないように見える。
そうなると机の中か、カバンの中、もしくはポケットの中のどこかにあるのだろう。
私は増野くんがまだ眠っているのを確認してから、大胆にも机の中とカバンの中を探りはじめた。
(こんなところ、誰かに見つかったら大変だ)
でも、なぜかその手を止めることができなかった。
小さく聞こえてくる楽しそうな笑い声は、どうしようもなく私の心を揺さぶっていた。
結局、机の中にも、カバンの中にも、スマホは見つからなかった。
(あとはポケットの中か……)
さすがにここは抵抗がある。
夏服への衣替えが終わったばかりなので、上着にはワイシャツの胸ポケットしかない。ところがそこには何も入っていなかった。
(うーん、この展開は……)
そう、残っているのはズボンのポケットだけだ。
前に二つ。後ろに二つ。
このどちらかにあるに違いない。
私はほんの僅かな希望に賭けて、後ろのポケットをそっと指先で開いてみた。
右後ろのポケットにも、左後ろのポケットにも無かった。
(あー、やっぱりそうなるか……)
ズボンの前ポケットのどちらかにあるのが確実となってしまった。
――私は意を決して、前のポケットに手を突っ込んだ。
「誰!お前!何!?痴漢!?」
とつぜん増野くんが目を覚まして飛び上がった。
「だよね……」
「何なんだよお前!誰だよ!」
立ち上がって後ずさりした増野くんに、正直に告げることにした。
「寝てたでしょ。増野くんのイヤホンから音が聞こえてきて、なんか楽しそうだなと思って」
「えっ?あれ、聞こえたのか?」
「うん、笑い声が気になって、どこから流れているのかなって……」
「それでポケットを……」
増野くんはそうつぶやくと、再び椅子に座ってポケットからスマホを取り出した。
そして何やら操作をし始めた。
「気になるなら見てみる?」
増野くんはスマホの画面を私に向けて、ニヤリと笑った。